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藤田嗣治展~東京都美術館~行ってきました

もし、9月9日のNHKEテレの日曜美術館「知られざる藤田嗣治~天才画家の遺言~」を観ていなかったら、今日の展覧会の印象、また違ったものになったのかもしれない。

藤田嗣治。

およそ100年前、フランスのパリに渡り、日本人として初めて高い評価を得、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して、フランスで洗礼を受け、レオナール・フジタとなる。

エコール・ド・パリの寵児のひとり。

と聞いて、いったいどんな人⁉️と気になっていた。

華やかなところに注目すると、本当に輝かしくて、

幼い頃から絵の才能を発揮し、19歳で東京美術学校西洋画科に入学。巨匠 黒田清輝に学び、26歳でパリに渡り、オカッパ頭にチョビヒゲとロイドメガネをトレードマークに。

パリの社交界でも人気を集め、日本の浮世絵からインスピレーションを受け「乳白色の下地」いう独自の技法も確立し、その美しい白い肌の裸婦は“Grand Fond Blank グラン・フォン・ブラン 素晴らしき乳白色”と呼ばれ、以後、藤田さんの代名詞となるほど有名になり、第一次世界大戦後サロンで次々に入選を果たすようになりました。

と、こう聞くと本当に順風満帆に聞こえる。

が、東京美術学校の卒業制作に描いた自画像は、黒田清輝から「悪い絵の見本」と酷評され、画家としての将来は見えなかったという。そんなこともあって、意を決して単身パリへと。

日本人画家の多くが当時伝統的な美術学校「アカデミー」で学ぶ中、藤田さんは一人違っていて、世界中から成功を夢見る野心的な画家たちが集まっていたモンパルナスに居を構え、ここで、後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれるロシアのシャガールやイタリアのモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、そしてスペインのピカソたちと出会い、影響し合う。

特にピカソのキュビズムからは大きな衝撃と影響を受け、「日本で想像する以上の絵画の自由さ」と表現している。

その後、パリのサロンで入選を果たすようになる。

オカッパ頭にチョビヒゲとロイドメガネ、耳には輪っかのピアスがトレードマーク。

大通りにはなんと!藤田さんのマネキンが置かれ、パリの社交界でも人気を集め、パリの夜の舞踏会で女性と踊っている様子も。

しかし、これが祖国日本の画家たちから思わぬ反発を受けた、その振る舞いは「国辱」とまで決めつけられてしまう。

本当の藤田さんは、全くお酒が飲めず、宴で大騒ぎした後もアトリエに戻って絵を描くのが常だったと言うのに。

その後、世界恐慌。

絵の値段も暴落し、新たな絵を模索し始める。

フランスを離れ、中南米、また、父親が軍医で朝鮮にいて、朝鮮でも風景画を描いています。

世界を回り、この頃、画風が変わり、色々な色を取り入れハッキリした絵を描くようになります。

そして、中国大陸への進出を始めた日本へ戻ります。

戦争画(作戦記録画)の作成に参加するようになり、画家たちのリーダーに。

この頃の自画像が展示されていますが、オカッパ頭をスッパリと短髪にしています。

藤田さんが戦争画に積極的に関わっていった背景には、茨城県近代美術館館長で美術史家の尾崎正明さんによると「戦争画を描くまでは決して、20年間パリにいたことで日本に戻ってきてからも画壇の中で溶け込めていたとは言えず、それを戦争画というのはいっぺんに取り払ったのではないかと」ということだ。

藤田さんは、やっと同じ日本人として、画壇の仲間と打ち解けた気がしてホッとしていたのかも。

しかし、戦争が終わり、GHQが戦争責任の追及に取りかかった時、戦時中名のある画家のほとんどが軍の要望で戦争画を描いていた日本の美術界は敏感に反応し、画家の中で責任をとるべきは誰なのか。

藤田さんの手記によると、ある日、後輩の画家が藤田さんの自宅を訪れて涙ながらに「どうか先生、みんなに代わってその罪を引き受けてください」と言ったという。

結局、画家が責任を問われることはなかったが、藤田さんは日本を離れる決心をし、ニューヨーク、そしてパリへと移り、日本に戻ることなく世を去りました。

藤田さんは日本を離れるとき、こういう言葉を残しました。

「絵描きは絵だけ描いてください 仲間げんかをしないでください」と。

およそ10年ぶりにパリに戻った藤田さん。

その時、パリの雑誌は藤田さんのことを「一人の亡霊」と冷ややかに評した。

日曜美術館、観ていてとても悲しくなりました。

でも、自分の新天地を求め、絵や回りと真摯に向き合い、優しい愛ある眼差しを向け、表現していった藤田さん。

だからこそ、その作品は磨かれ、激動の時代に人々を和ませる力があったのかもしれない。

そのあと、藤田さんはフランスの国籍を取得し、日本国籍を抹消。

そして、洗礼を受け、洗礼名を敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチより、レオナールとし、その後のサインには嗣治ではなくレオナールと記しました。

日本を捨てたと日本の新聞の記事になり、日本の人たちを驚かせました。

戦後、藤田さんはこどもの絵をたくさん書きます。

その後も、藤田さんは新しい技法に挑戦し、声も遺しています。

この世を去る2年前に遺した言葉です。

「必ず絵には 永久に生きている魂があると思っております」

どんな絵を見られるかしら。

JR山手線内回り上野・池袋方面行きで7号車の進行方向、後ろから2番目のドアがちょうど公園口改札へ上るエスカレーターの前です。

午前11時過ぎに東京都美術館に到着。

当日券を求める列が、ミュージアムショップの端まで伸びていました。

ゆっくりグッズまで観て回って、出口を出たところで3時前でした。

オカッパ頭にチョビヒゲとロイドメガネがトレードマーク。

社交界でも人気を集め、「乳白色の下地」が特徴の裸婦で知られる藤田さん

でも、猫を始め、キツネ、鳥、リス、フクロウなど、動物の絵がとても可愛らしい!

子どもの絵もとっても心がくすぐられます。

風景画はどことなく、夢の中の景気のように不思議な、ユニークな、感じがする。

肖像画も、目も独特でどことなくユーモラスな表情に見える。

そして、背景は、影のような、浮き立たせるような表現になっていて、オーラって本当にあって、それが見えていたのかなと思える表現。

裸婦になると、ユーモラスな感じは出ていなくて、頬や唇や乳首のサーモンピンクが、その乳白色の肌に馴染み、ま明るく愛らしさや華やかさが出ていて、また、黒い細い線とも、見事なコントラストで、お互いを際立てている。

手仕事にも敬意を示し、ジュイ布も背景によく描かれていて、その色や模様もよく描かれていました。

その後、世界恐慌が起こり、北米・中南米・アジアを旅して回り、画風ががらりとかわります。

日本でも秋田や沖縄など各地を旅して回ります。

秋田の女性の中に、ロシアで出会ったはにかむ姿を重ねたり。

沖縄のことは「夢の国」だと語っています。

 

そして、額縁も自分で作っていたり、お皿も、この間のカール・ラーションと同じように自分で絵付けをしていて、その絵付けがまた、猫が自転車に乗っていたり、猫の聖母子だったり、猫のキリスト降誕だったり。

私が見た藤田さんは、繊細で動物にも子どもにも、持ち物にも、優しく温かい目をもって見つめる、そして、ユーモラスでおちゃめで、しかも、絵への情熱に溢れた人でした。

そして展覧会では、藤田さんのそばにいた4人の女性たちとの生活も感じられます。

先生や世間から、悲しいことを言われても、自分の情熱にしたがって腕を磨き、場所を探し求め、見つけては脚光を浴び、その度に批判も受けた藤田さん。

それでも、本当に、純粋に美しく優しく、絵という表現に変えていった藤田さん。

悲しみや納得がいかないことも、精神的、行動的に、平穏を求めながらどう乗り切るかを教えてくれる気がします。

グッズは、藤田さんとネコちゃんのマスコットやそのイラストのクリアファイル。

藤田さんが描いたネコちゃんの顔のタオルハンカチ。

黒猫のマグネット。

フランス、ブルターニュ地方の塩を使った塩キャラメル。

など。

ネコ好きな人にはオススメグッズ。

展覧会は来月8日(月)まで。

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