16Jul
数日前から蝉の声が届くようになりました。季節は動いていますね。
樹木希林さんがお茶の先生を演じられたことでも話題になった「日日是好日」の原作をようやく読みました。時代が変わり、身の回りのツール(道具)が変わって行っても、生活や常識がちょっとづつ変わって行っても、人の心の空模様や悩みは今とあまり大きな違いはなく、春夏秋冬と繰り返し迎え、主人公の典子の視点から積み重ねられて行く体験と気づき、お茶の先生の在り方(振る舞い、接し方)、読み終えた後に残る静かで穏やかで温かくなる余韻と、自分自身、年齢を重ねて来たことで得た実感とが重なるような一冊でした。
その時同時に読み進めていた吉本ばななさんのエッセイ「すべての始まり」の中の一節に全く同感。
「大勢がいいというものにはなにか納得できるものがある。そしてその『大衆』『大勢』というものは思ったよりもずっと知的で正確なものである。それは確かなことだと思っています。」
吉本ばなな『すべての始まり』(幻冬舎文庫)p162
確かに、大勢がいいというものは「観たり」「読んだり」「行ってみたり」、体験・経験してみる価値があると思いました。
「日日是好日」は著者の森下典子さんの自伝エッセイ。女性として、社会で通って行く道を、親の娘を思う氣持ち、本人が「取り分けズバ抜けて才能なんて無いような?」と思いながら、後輩が出来、周りの人と比べて「自信がない、自信が持てない」と感じていたり、長女あるあるでもあると思うのですが「お利口さんに、続けることは出来るけれど、『氣がつくこと』『氣遣い』『氣を利かせる』なんて出来ないような、『咄嗟の判断・臨機応変』や『融通を利かせる』のが苦手」で、私って何も出来ない」と思うようなことや、こんなに長く続けているのに完璧に答えられない、出来ないと思うこと、語り手の典子のその悶々さが自分の心の内と重なる。
でもそんな中で、お茶の先生の室礼やおもてなしと言うのでしょうか、それに触れて、ある日ふと「ただここにいるだけでいいんじゃないか」と典子は思う。この場面は「ほっ」とため息が出るような落ち着き、今まで悶々と感じていた、抱えていた重さが「ふっ」と軽くなる瞬間だった。典子の体験、経験の中で、自分の抱えていたものも擬似体験と言うのでしょうか、重ねて解放できる。本って、エッセイって、そんな役割もしてくれるのかも。
茶道、花道、書道、香道、武道、日本の習い事には『道』がついているのは「人生を歩む『道』」と重なるから、と習い事の先生がお話しされたことが私の心にも残っている。
印象に残ったことば・典子の氣づきをここに引用と言う形で残したいと思います。
この世には学校で習ったのとはまったく別の「勉強」がある。あれから二十年が過ぎ今は思う。それは教えられた答えを出すことでも、優劣を競争することでもなく、自分で一つ一つ気付きながら答えをつかみとることだ。自分の方法で、あるがままの「学び」とはそうやって、自分を育てることなのだ。自分の成長の道を作ることだ。気づくこと。一生涯、自分の成長に気づき続けること。
森下典子『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』(新潮文庫)
PR
日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)
PR
すべての始まり どくだみちゃんとふしばな1 (幻冬舎文庫)